先輩女王様に倣って

私にとっての女王様像

一番古い記憶ではディズニーの白雪姫(VHS版)

次に小学校の時、母の本棚で読んだ江戸川乱歩「芋虫」の須永時子夫人

中学の時にみた「CHICAGO」のキャサリン・ゼタ・ジョーンズが演じるヴェルマ・ケリー

谷崎潤一郎文学の中のナオミ、春琴

 

印象的でなおかつ自己形成に影響を大きく与えたのはこのあたりだろうか。白雪姫の女王様は人格形成にはほぼ影響せず、印象の面だけだが。

女王様というより悪女・烈女と表現する方がしっくりくる女性もいる。

 

筆者は非常にわがままな性分で、女王様になりたい欲求がある。

この欲望を確かめたのは22歳を過ぎたあたりだろうか。

4股をかけられたり悪い男に弄ばれたりする経験の中で、己のメンヘラ的側面を咀嚼し嚥下し消化した結果、M男にモテるようになった。

 

先に挙げた女王様の中で最も憧れているのはヴェルマ・ケリーだ。

オープニングの「All that jazz」で”No I'm no one's wife. Oh I love my life!” と歌い上げるシーンがある。

ヴェルマ・ケリーはその晩の舞台に立つ直前、自分の夫が自分の妹と関係を持った現場に出くわし、二人を射殺した。本来はその二人と合わせて三人、妹との「ケリーシスターズ」の名目で舞台に立つはずだったが、彼女は一人で歌い、踊りきり、迎えに来た警察官を舞台上から威圧し、高らかに先の文句を締めに歌い上げ、物語は始まる。

 

どんなに自分が悪くても"彼が悪い"と歌う「Cell block's tango」も「Chicago」がなんの映画たるかを表現しているものの一つだ。

いやぁ、めっちゃいいんだ。

ああなりたいんだ。

理不尽なくらい自分を正当化して胸張って着飾って強く美しく生きようとするあの映画の彼女たち、特にヴェルマ・ケリーに憧れてしまうことは仕方のないことなんだ。

 

スタイル・ヴィジュアル面の憧れはヴェルマ・ケリーに傾倒してる。

では精神面は?

 

サディストの振る舞いを求められ、女王様になりたい心を察した時、わたしは真っ先に春琴とナオミのことを思い出した。

無茶苦茶で、こどもっぽくって、わがままで、贅沢で、傅く彼がいなければ生きていけないのに、どうしようもなく魅力的な彼女たちを思い浮かべた。

「わたしはああなりたいのか?」と思いつつ数年を生きる。求められるように、なりたいように振る舞う。

が、ふとしたきっかけで気がついた。

私がなりたかったのは須永時子夫人であるということだ。

 

(このきっかけというのが、「初めて読んだ恋愛小説は何?」という会話で「芋虫」と答えたことにある。我ながら初めての恋愛小説に「芋虫」があがるような読書環境の中で育ったことに驚きつつも感謝している。)

(「芋虫」は母の趣味の本棚から引き抜いて読んだ記憶がある。)

 

わたしはわがままに「奪う」女王様ではなく「与える」女王様になりたいのだと思った。

求められるままに与える、よもや彼の世界の全てになりかねん女王様に。

 

よく言われるのがSとMの関係は嗜虐と被虐、主従だけでなく「サービス」のSに「求める」のMであるとも表現される。

案外わがままなのはMと言われる立場で「こう虐めてくれ」「ああ弄ってくれ」「どのように焦らしてくれ」と言葉にしようがしまいが要求が多いものである。

Sの立場はMが喜ぶように、しかし主導権は自分が握ったまま刺激を与える妙な役である。

 

与えたいという気持ちとわがままでありたいという気持ちは両立しないようで私の中ではうまくバランスを取っている。

 

いつの日かの目標としては、ヴェルマ・ケリーのように凛々しく美しく、春琴抄の佐助のような忠実な男を従え、芋虫の須永時子夫人のように求められるままに何もかも与えるような女王様になりたいです。

 

あと当面の目標としては体を縛らなくても心を拘束して自由を奪う技術を身につけることです。