選んだ他人

本気で死のう、と思ったのは過去に二度しかない。

二度、は少ないのだろうか多いのだろうか。幸せな人生だったのだろうか。

一度は大学を卒業して初めに勤めたところで心を病んだ時。朝、目が覚めて枕元に垂れるカーテンに首を括って死ぬか、と考えた。カーテンの向こうから差す朝陽が微塵も眩しくなかった。

二度目は元旦那の不貞行為が明らかになった時だった。

自分のアレルギー体質を利用して死のうと準備を整えていた。間違って生き延びて後遺症を抱えないように、ちゃんと死ねるように、迷惑をかける人は最小限に。

衝動的に沸き立った希死念慮を操縦した。

死にたい時ほどどうして冷静になるんだろう。涙は止まらなかったけど、仕事は休まず出勤し、週に一回シェアキッチンで出させてもらっていたサンドイッチ店もなんとか綺麗にたためた。と自己評価している。実際はぐずぐずだっただろうが。

死にたい最中、友人が作ってくれた生姜焼きが美味しくて生きようと思った。

 

 

生きることを選んだら選んだで辛かった。冷静じゃいられなくなり、TPOをわきまえず流れる涙は脳を焼いた。肘から先が理由もなく震える。指先の感覚がなかった。歩くときに腿が十分にあがらないのでよく道でつまづいた。早く歩けないので移動に時間がかかって仕方なかった。

食事は喉を通らないので二日に一食で動いていた。この時に過度のストレスと急激な減量で生理が止まり、もう未来の見えない当時の旦那との妊娠の可能性が浮上した。最悪に追い打ちをかけるような懸念だった。

 

 

元旦那とは離婚で合意した。

わたしはあくまで、性格の不一致ではなく彼の不貞行為が離婚事由であると考えている。

 

協議離婚せずに調停離婚にして慰謝料でももらったら少しは気が紛れたのだろうか。

いや、きっとそんなことは無い。裁判のために不貞行為の証拠を集める過程で気が狂ってしまっただろう。

不貞行為に及んだと確認できたLINEのやり取りだけでも相当きつかった。

それ以上の証拠をどうして集められただろうか。

浮気相手の生理のタイミングを把握していた元旦那が気持ち悪くて仕方なかった。

死にたいときは何とも思わなかったのに、生きようとすれば奴の何もかもが許せなかった。

 

 

元旦那の不貞行為について一人で抱え込むのが辛かった。

しかし誰かに相談しようにも友人が少ないわたしにはどうしようもなかった。

その上元旦那と浮気相手が共通の知り合いにいる友人に相談することは彼らに対する加害だと思っていた。

欠席裁判をいいことに彼らの不貞行為を被害者面して泣きながら相談するなんて。

浮気が明らかになってすぐはそう考えていた。

マジで近い界隈で浮気はしてくれるなよ本当。

でもそれももう一年くらい前の話で、わたしは秘密にするのも被害者面するのも飽きた。

わたしの目一杯の被害者面をさらけ出すから、対等な加害者になろう。

元旦那は彼の主催する社会人・学生合同のサークルのメンバーとラブホで首絞めセックスを楽しんでいた。きっしょ。事後LINEで感想を交換して次回に活かそうとしてんじゃねぇよ

 

 

当時は婚姻届けを出すときに証人になってくれた友人と母に相談し、数少ない友人や年下の子にも頼ったこともあった。

被害だの加害だのきれいごとをさっき並べたけど、当時は何も考えられないくらい憔悴していたのが実際だ。自分が生きることで精一杯だった。

聞いていて気分の晴れる話でもなかったのであの時は真摯に話を聞いてくれた友人たちに感謝する。

 

大声で喚かなかった理由としてもう一つ挙げるとすれば、あの時は元旦那にまだ情があったし将来彼が店を持つならこんなスキャンダルは胸のうちに秘めるのが優しさだ、と考えていた。

けど離婚して時間が経って元旦那とは赤の他人という意識がきちんと持てた。今は特に情もないし彼がやるかどうかわからん店の心配なんてしていられない。

 

離職し、引っ越し、離婚して数カ月は、どうして元旦那は定職について好きな街に住み続けてヘラヘラ酒飲んで野球してるのに、わたしは昼も夜も寝れなくて、突発的に涙が出て、飯の味も満足にわからない無職ライフを送らなあかんねんと苛立った。

今は睡眠も食事も規則正しくとれている。生きていくには不十分だった体重も標準値になった。たまのフラッシュバックは辛いが。

 

 

「親といえども他人」という言葉に救われる時があった。

わたしの母は特段毒親ではない。子どもの贔屓目ありならば良い親に分類されると思う。

しかしそれでも譲れない部分の価値観が違うな、と感じたこともある。人間だから、親といえども他人だからそれは当たり前だ。

わたしは母を「他人」というが母はわたしを産むことを選んで家族になった。

わたしが産まれた当時の家庭の状況から鑑みるに「産まざるを得なかった」ではなく「産むことを選んだ」であると推測している。

わたしと母の選んだ/選ばれたは母⇒わたしの一方向であるが、わたしは当時の旦那と双方が選び/選ばれ家族になった。

元旦那は初めてわたしが選んだ他人/家族だった。

選んだ他人/家族がとても人に言えないようなことをしたのは悲しく、一度好きになった人間を嫌いになることも苦しかった。

 

 

去年の夏は辛かった。睡眠がとれないというか、不規則だったり短かったり浅かったりで脳がしんどかった。

シーツにくるまりながらも目をつぶることはできない。障子の向こうで段々白んでいく世界の気配に絶望する。辛い記憶が蘇ったり、寝れない自分を責めたりして一晩中泣いたら明け方にはもう頭痛ばかりで鼻水までも枯れた。

沈鬱の未明に粗食と水ばかり与えられた消化器が意思を持ってゴロゴロうねる。

眠れない日々、決まって夜になると「あの時死ねば良かったのか」と自問した。

生きることが惨めで苦しかった。

京都で過ごした日々はそりゃ辛いこともあったけれど楽しい思い出もたくさんあった。

元旦那に関わりない思い出も、彼に会う以前の思い出もある。京都は生まれた時から離れたことのなかった愛しい土地だった。

そんな京都が阿呆な元旦那と阿婆擦れのせいで苦い思い出の地になった。

京都から逃げても辛かった。

 

 

元旦那から謝罪は一言も無かった。

日にち薬と今住んでいる土地に癒された。

わたしの一番情けない時にそばにいてくれた友人、身体的特徴を詮索せず受け入れてくれた村の人々、不安定に生きる娘をずっと気にかけてくれた母と母の旦那さん。

多くの人への感謝は尽きない。他人だなんて冷たいことを言うかもしれないが、選んだ他人がいるなら特別な他人も愛すべき他人もいる。

彼らのおかげで生きてこれた。本当にありがとう。

 

 

たまの発作でまだ苦しくなる瞬間もある。あの夜と同じように「あの時死ねばよかったのか」と自問した時、今だったら「人はいつか死ぬけどあの時は死に時じゃなかったよ」と答えられる。

日々変わりゆく山の景色の美しさに心が動かされる時、美味しいお酒や食べ物を頂いた時、友人や母と談笑する時、生きていてよかったと少しほっとする。