選んだ他人

本気で死のう、と思ったのは過去に二度しかない。

二度、は少ないのだろうか多いのだろうか。幸せな人生だったのだろうか。

一度は大学を卒業して初めに勤めたところで心を病んだ時。朝、目が覚めて枕元に垂れるカーテンに首を括って死ぬか、と考えた。カーテンの向こうから差す朝陽が微塵も眩しくなかった。

二度目は元旦那の不貞行為が明らかになった時だった。

自分のアレルギー体質を利用して死のうと準備を整えていた。間違って生き延びて後遺症を抱えないように、ちゃんと死ねるように、迷惑をかける人は最小限に。

衝動的に沸き立った希死念慮を操縦した。

死にたい時ほどどうして冷静になるんだろう。涙は止まらなかったけど、仕事は休まず出勤し、週に一回シェアキッチンで出させてもらっていたサンドイッチ店もなんとか綺麗にたためた。と自己評価している。実際はぐずぐずだっただろうが。

死にたい最中、友人が作ってくれた生姜焼きが美味しくて生きようと思った。

 

 

生きることを選んだら選んだで辛かった。冷静じゃいられなくなり、TPOをわきまえず流れる涙は脳を焼いた。肘から先が理由もなく震える。指先の感覚がなかった。歩くときに腿が十分にあがらないのでよく道でつまづいた。早く歩けないので移動に時間がかかって仕方なかった。

食事は喉を通らないので二日に一食で動いていた。この時に過度のストレスと急激な減量で生理が止まり、もう未来の見えない当時の旦那との妊娠の可能性が浮上した。最悪に追い打ちをかけるような懸念だった。

 

 

元旦那とは離婚で合意した。

わたしはあくまで、性格の不一致ではなく彼の不貞行為が離婚事由であると考えている。

 

協議離婚せずに調停離婚にして慰謝料でももらったら少しは気が紛れたのだろうか。

いや、きっとそんなことは無い。裁判のために不貞行為の証拠を集める過程で気が狂ってしまっただろう。

不貞行為に及んだと確認できたLINEのやり取りだけでも相当きつかった。

それ以上の証拠をどうして集められただろうか。

浮気相手の生理のタイミングを把握していた元旦那が気持ち悪くて仕方なかった。

死にたいときは何とも思わなかったのに、生きようとすれば奴の何もかもが許せなかった。

 

 

元旦那の不貞行為について一人で抱え込むのが辛かった。

しかし誰かに相談しようにも友人が少ないわたしにはどうしようもなかった。

その上元旦那と浮気相手が共通の知り合いにいる友人に相談することは彼らに対する加害だと思っていた。

欠席裁判をいいことに彼らの不貞行為を被害者面して泣きながら相談するなんて。

浮気が明らかになってすぐはそう考えていた。

マジで近い界隈で浮気はしてくれるなよ本当。

でもそれももう一年くらい前の話で、わたしは秘密にするのも被害者面するのも飽きた。

わたしの目一杯の被害者面をさらけ出すから、対等な加害者になろう。

元旦那は彼の主催する社会人・学生合同のサークルのメンバーとラブホで首絞めセックスを楽しんでいた。きっしょ。事後LINEで感想を交換して次回に活かそうとしてんじゃねぇよ

 

 

当時は婚姻届けを出すときに証人になってくれた友人と母に相談し、数少ない友人や年下の子にも頼ったこともあった。

被害だの加害だのきれいごとをさっき並べたけど、当時は何も考えられないくらい憔悴していたのが実際だ。自分が生きることで精一杯だった。

聞いていて気分の晴れる話でもなかったのであの時は真摯に話を聞いてくれた友人たちに感謝する。

 

大声で喚かなかった理由としてもう一つ挙げるとすれば、あの時は元旦那にまだ情があったし将来彼が店を持つならこんなスキャンダルは胸のうちに秘めるのが優しさだ、と考えていた。

けど離婚して時間が経って元旦那とは赤の他人という意識がきちんと持てた。今は特に情もないし彼がやるかどうかわからん店の心配なんてしていられない。

 

離職し、引っ越し、離婚して数カ月は、どうして元旦那は定職について好きな街に住み続けてヘラヘラ酒飲んで野球してるのに、わたしは昼も夜も寝れなくて、突発的に涙が出て、飯の味も満足にわからない無職ライフを送らなあかんねんと苛立った。

今は睡眠も食事も規則正しくとれている。生きていくには不十分だった体重も標準値になった。たまのフラッシュバックは辛いが。

 

 

「親といえども他人」という言葉に救われる時があった。

わたしの母は特段毒親ではない。子どもの贔屓目ありならば良い親に分類されると思う。

しかしそれでも譲れない部分の価値観が違うな、と感じたこともある。人間だから、親といえども他人だからそれは当たり前だ。

わたしは母を「他人」というが母はわたしを産むことを選んで家族になった。

わたしが産まれた当時の家庭の状況から鑑みるに「産まざるを得なかった」ではなく「産むことを選んだ」であると推測している。

わたしと母の選んだ/選ばれたは母⇒わたしの一方向であるが、わたしは当時の旦那と双方が選び/選ばれ家族になった。

元旦那は初めてわたしが選んだ他人/家族だった。

選んだ他人/家族がとても人に言えないようなことをしたのは悲しく、一度好きになった人間を嫌いになることも苦しかった。

 

 

去年の夏は辛かった。睡眠がとれないというか、不規則だったり短かったり浅かったりで脳がしんどかった。

シーツにくるまりながらも目をつぶることはできない。障子の向こうで段々白んでいく世界の気配に絶望する。辛い記憶が蘇ったり、寝れない自分を責めたりして一晩中泣いたら明け方にはもう頭痛ばかりで鼻水までも枯れた。

沈鬱の未明に粗食と水ばかり与えられた消化器が意思を持ってゴロゴロうねる。

眠れない日々、決まって夜になると「あの時死ねば良かったのか」と自問した。

生きることが惨めで苦しかった。

京都で過ごした日々はそりゃ辛いこともあったけれど楽しい思い出もたくさんあった。

元旦那に関わりない思い出も、彼に会う以前の思い出もある。京都は生まれた時から離れたことのなかった愛しい土地だった。

そんな京都が阿呆な元旦那と阿婆擦れのせいで苦い思い出の地になった。

京都から逃げても辛かった。

 

 

元旦那から謝罪は一言も無かった。

日にち薬と今住んでいる土地に癒された。

わたしの一番情けない時にそばにいてくれた友人、身体的特徴を詮索せず受け入れてくれた村の人々、不安定に生きる娘をずっと気にかけてくれた母と母の旦那さん。

多くの人への感謝は尽きない。他人だなんて冷たいことを言うかもしれないが、選んだ他人がいるなら特別な他人も愛すべき他人もいる。

彼らのおかげで生きてこれた。本当にありがとう。

 

 

たまの発作でまだ苦しくなる瞬間もある。あの夜と同じように「あの時死ねばよかったのか」と自問した時、今だったら「人はいつか死ぬけどあの時は死に時じゃなかったよ」と答えられる。

日々変わりゆく山の景色の美しさに心が動かされる時、美味しいお酒や食べ物を頂いた時、友人や母と談笑する時、生きていてよかったと少しほっとする。

 

京都生まれと海

わたしは京都生まれです。伏見生まれ洛西育ち。

うっさい洛中洛外だのやかましい。

今回書きたいことと京都人の精神論はあまり関係ないので深追いはしません。

 

京都市内で育った身としては海は特別な存在であった。

漁港や街に面している海は愛知や東京に少し住んでいた時に通ったけど、そうではなく海水浴場・ビーチのある海がとても特別に感じられる。(東京はこんなに海〔東京湾〕に近い都市なのかと感動した記憶がある。東京といえばビルや東京タワー、皇居など建造物のイメージが強かったので)

京都府舞鶴あたりが海に面しているが海上自衛隊ととれとれセンターのイメージしかなく、海水浴場ではなじみがない。このブログを書くにあたってちょっとググったら舞鶴天橋立に海水浴場があったんかと驚いた。

以下、海とは海水浴場のことを指す。

 

そんなんで海水浴に行くといえば福井の海に行くことがほとんどだった。

京都からだったら兵庫の須磨や和歌山の白浜に行く人も周りにはいたが、わたしが行ったことがあるのはほとんど福井だった。

京都から海に行くことは気軽ではなかった。支度をして車を出して2,3時間は最低でも運転するのだろか。

 

今は自転車を少し漕げば海に行ける地域に滞在している。

海。知っている、分からないものじゃない、理解している。

だけどいざ目の前に浜辺がひらければそれはよくわかなかった。

 

砂浜を踏むたびに逃げていくか細い虫

突然深くなる浅瀬

気まぐれに強く打つ波

砂浜ってこんなに硬かったかと裸足で歩いて思う

岩に張り付いているあれが貝なのか虫なのかわからない

波に揺られて足をくすぐるものが流されるままの葉っぱなのか海に生きる虫なのかわからない

海はこんなに静かだったかと今まで訪れた「海」を忘れそうになる

 

太平洋は思ったよりも生臭くなかった。

日本海と太平洋ってきっと違うんだろうけど、日本海の特徴を分かってないので何が違うのかわからない。

 

 

海が身近なものでないので海に行った時の記憶は名前を付けて保存される。

3年くらい前に福井の海に行ったとき、高潮に引っ張られて沖から自力で帰れずブイに捕まり浮き輪でぷかぷか浮いていた。腕にゴリゴリのタトゥーが入ったお兄さんに引っ張ってもらってなんとか帰れたが、あの時から海が怖い。

いや、足がつかない深さの水場が怖いので琵琶湖も怖い。

 

小学生の頃は家族で泊りがけで海に行った。

それもきっと福井だったはずで、夏は海水浴、冬は蟹を食べに行った。

小学校4年生の冬が最後だったのだろうか。最後と意識していないのであまり覚えていない。

小学校5年生の夏に両親が別居をしたのできっと家族4人の旅行はそれが最後だったかもしれない。

世にも奇妙な物語を見るのが怖くて旅館の別の部屋に隠れていた。隠れるのも飽きてテレビのある部屋に戻ると米倉涼子が写っていた、気がする。あと音のしない部屋を完成させて気が狂って自分の心臓を止めた男の話もあった気がする。

海や蟹より夜みんなで見たテレビの方をよく覚えてるのは、海や蟹を家族で楽しんだことを思い出すと感傷的になるからだ。そんな必要ないのに。

 

 

いつも誰かの運転で海に連れて行ってもらった。

今は自分の力で海に辿り着けることがとても嬉しかった。

福井の海も、高知の海も、きっと訪れたことのない沖縄やカルフォルニアの海も、みんな違う「海」なんだろう。七つの海はみんな繋がっているのにどこの海水浴場も違う表情だなんて浪漫がある。

これから引っ越すところは琵琶湖も海までも車で30分くらいの位置にあるらしい。

夏の朝、まだ道路がすいている時間に早起きできたら気まぐれに海に行きたいだなんて妄想をしてしまう。

 

頼る人がいればその人に甘えてしまうけど、いないならいないでわたしは生きていけるよ。

転んだらひとりで起き上がれるわけじゃないけど、立ち上がったら一人で歩けるもんね。

だからどこの海にも自分の力で行ける気がした。

海はやっぱり怖いし、悲喜こもごもいろんな思い出に繋がっているけどみんなそのうち過去になる。

岩場に腰かけ足を海につけながらチョコレートがどろどろ溶けたアルフォートを食べて思った。

のんきに自己肯定感を確かめてたら浜辺に置いてた波にさらわれ靴が流された。

靴だけでも大海原に飛び出せないかと見守っていたら何度波に引かれてもまた押されて戻ってくる。

浮かれはしゃいで水遊びを楽しむスニーカーを回収して帰路についた。

翌日は日焼けで顔と腕が火傷していた。

身を切る七月

 

七月がやっと幕を閉じた。梅雨とともに。

七月はひと月を通してずっと体調が悪かった。断酒をして通院するくらい体調が悪かった。

メンタルも芋づる式でやられた。もう破れかぶれよ。

 

医療用モルヒネを投薬された人のモルヒネレビューをさらっと見かけたことがある。

「苦しいけど点滴から幸せが注入されているようだった」と

この七月はそのレビューの一文に表される。

辛いことはあるけど幸せなことはある。けど幸せなことは辛いことを包んだり相殺したりせず痛みと幸せが独立して刺激と感情を私に与えた。

 

フィジカル。

美味しいものを食べる。夜は寝られる。蕁麻疹も出ない。

低気圧で頭がひと月の間ずっと重かった。卵巣が腫れて不正出血がある。運動不足。

メンタル。

好きな人と同じ屋根の下に住む。芸術文化に親しむ。好きな服を着る。音楽と映画に没入する。

人にキレ散らかす。人を傷つける振る舞いをする。溜まったタスクが消化できない。ずっと雨。人の視線におびえる。

 

いいことも悪いこともある。

それらは同じ面の上にいるが交差することなく自分の役割を果たした。

 

 

世の中で既にそれっぽい答えが出ている壁にぶつかったとき、難問を消化できなくて悶える自分と答えは簡単やろと俯瞰ぽく大人っぽく冷静っぽくふるまう自分との間であわあわする。

難問は単純だけど答えは簡単じゃない。

 

幸せには幸せなんです。

こんな自分には身にあまるほどの幸せの日々を生きている。

健康には健康なんです。

五体満足で睡眠も食事も生きるに足りるほどとっている。

 

それでも体はままならない。心はもっとままならない。

こころの処方箋は先人が示してくれた地図の通り尋ねればすぐに手に入れられるかもしれない。

かんたんでわかりやすいことに傷ついて悲しんでいるもかもしれない。

でも駄目なんだ

理屈が通じないほどもう駄目になったんだ

 

 

駄目なの辛いの苦しいのって言ってもわたしは元気だからなんやかんやで大丈夫よ。

愚痴を液晶に呟けてわたしはすっきりした

砂を噛む

ご飯は美味しく食べたいものだ

 

好みの味で、適切な温かさで、きちんとした器に盛られていてもご飯の味がしないことがあった。

環境が甚だしく悪い状況で食事している時だ。

近くで誰かが怒鳴っているとか、自分が詰られているとか、ごはん時にそんなことするもんじゃないけど、そんなときに食べるご飯て味がしない。

 

わたしの母はそれを「砂を噛んでいるよう」と言った。

言葉の功罪は計り知れない。

 

あの味がしないぐちゃぐちゃした栄養摂取に「砂を噛む」と名付けることによって、グレーゾーンが失われきちんとした食卓と砂を噛む食卓が区切られた。これはいいことだったと思う。

「砂を噛む」と名付けたことによって惰性で流し込んでいたあの行為が食事から栄養摂取になった。これは良くなかった。

もう一ついいこととしては、誰かが傍で怒鳴っていても、物を投げていても、食事が(栄養摂取が)できるようになった。心臓に毛が生えた。図々しく生きられるようになった。

 

大学に進学したあたりから家族で食卓を囲む機会が減った。

一人で食べるか、外で食べるかだった。悪いことじゃない。平和な食生活がようやく訪れた。

社会人になって生家を出た。仕事場の寮や恋人と同棲するようになった。

食卓はより豊かなものになる。

好きなものを好きなように調理する。好きな人の顔を眺めながら食事する。多少調理に失敗しても自分で食べるから気楽なものであった。

ここ数年、「砂を噛む」ことは無くなった。気分がよくない時は無理に食事をしないようになった。

 

このことを友人に話した。あなたは砂を噛んだ経験はありますかとたずねると「『殺してやる』と思いながら噛みしめたご飯は最高においしかった」と言っていた。

人の食卓事情は様々である。

 

改めて、ご飯は美味しく食べたいものだと思った。

できれば、心身ともに健康な状態で。

死者の数をかぞえて並べるあなたへ

コロナ禍、もともと引きこもりの性分であるために外出規制がはかどる。

インターネットに接続している友人たちも家で過ごすために前年に比して平日の昼間でもSNSは活発だ。または深夜でも。

 

COVID-19についてはSNSの発言を避けている。

2月下旬はデマや誤報が拡散され、ネットもテレビも、一時期は政府の公式発表も信じられなかった時期もあったからだ。

自分がネットの海に投げるひとり言も、誰かが聞いているような気がしたのであまり呟かないでいた。

だからこのブログを書くのも少しためらった。

 

こんな時、わたしには守るべき家族もなく、ローンもなく、仕事もなく、何より矜持もない。

無職とは気楽なものである。

特効薬のない死に至る病を人に媒介するのは悲しいことなので家で大人しくする。

 

今日の時点(2020年4月14日午前12時)で日本でのCOVID-19の死者数は109人。

この数を年間のインフルエンザでの死者数、交通事故での死者数、自殺者数、餅を喉に詰まらせて亡くなった人の数などなどと比較する投稿がある。

非常に不愉快である。

SNSの基本的なルールは「嫌なら見るな」だが、目に入ったものは仕方ない。不愉快だ。

こんなこと、医療従事者が言ってても悲しいのに、事を分かり切ったような顔した門外漢の冷笑屋がやるから余計に憤りを感じるんだよな。

 

死んだ人の数を数えて並べる傲慢さは罪か?

恐らく罪ではない。しかしわたしは倫理にもとると感じている。

去年インフルエンザで亡くなった人の数に届かないから大したことじゃないとでも言いたいのか?

ひと月に自殺した人の数の方が多いからそちらの方が重要な問題だと言いたいのか?

亡くなった人の平均年齢が70歳以上で、コロナ以外の疾病も抱えていることが多いから動物のあるべき姿、ウイルスとの戦いの歴史の上では仕方ないことだと言いたいのか?

 

亡くなった人の数を数えて並べるなよ

お前は統計学者か医療従事者なのか?だからやってもいいことだとは思わないけどな

 

だからなんなんだよ

COVID-19の問題はCOVID-19の問題

自殺の問題は自殺の問題

交通事故の問題は交通事故の問題

一緒にしていい話じゃないんだよ

死んだ人の数っていうだけの共通項を無理やり繋いで並べるなよ

 

 

わたしの死生観、もしくはお会いしたこともない世間の皆さまへの期待として「死者を悼む心がある」というものを信じている。

100日後に死ぬワニがなぜあんなに話題を呼び、評価されたのか。

109人のうちのひとり、志村けんさんの死がなぜあんなに世間を揺らしたのか。

ICUから回復したボリス・ジョンソン英首相の退院を、なぜ喜んだのか。

生きてこそなんだ。

COVID-19は今日の時点では裏付けのあるワクチンも特効薬もないんだ。

だからこそ亡くなった人の数を並べてCOVID-19の話をするのはナンセンスだと思う。

 

 

 

わたしは平成一桁生まれで、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件は記憶にない。

世の中が変わる。ニュースの第一報でそう感じたのは9.11同時多発テロリーマンショック東日本大震災の3つだ。他にもイラク戦争とかあったけど、これが記憶にない。のんきな小学生だ。

正直、2.3ヶ月前に第一報を耳にした時は世の中が変わるとは露にも思わなかった。

のんきな小学生はのんきなまま大人になったので見事にマスクもトイレットペーパーも買いそびれた。

今でもマスクが手に入らんのだけど、みんなどこで手に入れてるんだ??

今は世の中が変わる、というよりも元通りにはならないだろうと思いながら見えないアフターコロナの世界を待っている。

ウィズコロナの時間が長引けば長引くほど、アフターコロナが長引く。

「もはや戦後ではない」ならぬ「もはやアフターコロナではない」宣言が遠のく。

きっとTOKYO2020オリンピック・パラリンピックが過ぎても宣言されないかもしれない。

 

わたしは何も守るものがない気楽でのんきな無職だから、祈ることと生きること以上は何もできない。

ただ生きていくしかない。

 

COVID-19に関わる全ての方に幸多からんことを、とお祈り申し上げます。

先輩女王様に倣って

私にとっての女王様像

一番古い記憶ではディズニーの白雪姫(VHS版)

次に小学校の時、母の本棚で読んだ江戸川乱歩「芋虫」の須永時子夫人

中学の時にみた「CHICAGO」のキャサリン・ゼタ・ジョーンズが演じるヴェルマ・ケリー

谷崎潤一郎文学の中のナオミ、春琴

 

印象的でなおかつ自己形成に影響を大きく与えたのはこのあたりだろうか。白雪姫の女王様は人格形成にはほぼ影響せず、印象の面だけだが。

女王様というより悪女・烈女と表現する方がしっくりくる女性もいる。

 

筆者は非常にわがままな性分で、女王様になりたい欲求がある。

この欲望を確かめたのは22歳を過ぎたあたりだろうか。

4股をかけられたり悪い男に弄ばれたりする経験の中で、己のメンヘラ的側面を咀嚼し嚥下し消化した結果、M男にモテるようになった。

 

先に挙げた女王様の中で最も憧れているのはヴェルマ・ケリーだ。

オープニングの「All that jazz」で”No I'm no one's wife. Oh I love my life!” と歌い上げるシーンがある。

ヴェルマ・ケリーはその晩の舞台に立つ直前、自分の夫が自分の妹と関係を持った現場に出くわし、二人を射殺した。本来はその二人と合わせて三人、妹との「ケリーシスターズ」の名目で舞台に立つはずだったが、彼女は一人で歌い、踊りきり、迎えに来た警察官を舞台上から威圧し、高らかに先の文句を締めに歌い上げ、物語は始まる。

 

どんなに自分が悪くても"彼が悪い"と歌う「Cell block's tango」も「Chicago」がなんの映画たるかを表現しているものの一つだ。

いやぁ、めっちゃいいんだ。

ああなりたいんだ。

理不尽なくらい自分を正当化して胸張って着飾って強く美しく生きようとするあの映画の彼女たち、特にヴェルマ・ケリーに憧れてしまうことは仕方のないことなんだ。

 

スタイル・ヴィジュアル面の憧れはヴェルマ・ケリーに傾倒してる。

では精神面は?

 

サディストの振る舞いを求められ、女王様になりたい心を察した時、わたしは真っ先に春琴とナオミのことを思い出した。

無茶苦茶で、こどもっぽくって、わがままで、贅沢で、傅く彼がいなければ生きていけないのに、どうしようもなく魅力的な彼女たちを思い浮かべた。

「わたしはああなりたいのか?」と思いつつ数年を生きる。求められるように、なりたいように振る舞う。

が、ふとしたきっかけで気がついた。

私がなりたかったのは須永時子夫人であるということだ。

 

(このきっかけというのが、「初めて読んだ恋愛小説は何?」という会話で「芋虫」と答えたことにある。我ながら初めての恋愛小説に「芋虫」があがるような読書環境の中で育ったことに驚きつつも感謝している。)

(「芋虫」は母の趣味の本棚から引き抜いて読んだ記憶がある。)

 

わたしはわがままに「奪う」女王様ではなく「与える」女王様になりたいのだと思った。

求められるままに与える、よもや彼の世界の全てになりかねん女王様に。

 

よく言われるのがSとMの関係は嗜虐と被虐、主従だけでなく「サービス」のSに「求める」のMであるとも表現される。

案外わがままなのはMと言われる立場で「こう虐めてくれ」「ああ弄ってくれ」「どのように焦らしてくれ」と言葉にしようがしまいが要求が多いものである。

Sの立場はMが喜ぶように、しかし主導権は自分が握ったまま刺激を与える妙な役である。

 

与えたいという気持ちとわがままでありたいという気持ちは両立しないようで私の中ではうまくバランスを取っている。

 

いつの日かの目標としては、ヴェルマ・ケリーのように凛々しく美しく、春琴抄の佐助のような忠実な男を従え、芋虫の須永時子夫人のように求められるままに何もかも与えるような女王様になりたいです。

 

あと当面の目標としては体を縛らなくても心を拘束して自由を奪う技術を身につけることです。

余白を埋めて

 

タトゥーの彫り師さんがしているYouTubeをみていた

オモシ―チャンネルってやつなんだけど

「タトゥーを一つ入れるとなぜもっと入れたくなるのか」というお題の動画で、声が出るほど納得した答えがあった

「タトゥーを一つ入れると、残りの部分が余白に見える」という答えだ

 

本当に、そのとおりで

身体的な余白を今はこつこつ埋めている

タトゥーってお金も時間もかかるし、埋めようと思ってすぐに埋まるものではない

埋まるたびに心は満たされ、余白を見るたびに心が渇く

 

なんのためにタトゥーを入れるのか

女だからよく聞かれる

余白を埋めるため

自分が何者か確認するため

私の服を剥いだ男を威嚇するため

でもいちばんしっくりくるのは「趣味だから」という答えだ

 

趣味なんだ

道楽なんですよ

 

 

体の余白は、日常で目にするところはとても気になる

背中とかって余白でも未完成でもあんまり気にならないらしいよ

心の余白については、あれば余裕と捉えて穏やかになることもあるし

あったら寂しさに見えて埋めたくなる

 

「男女が寄り添うことで寂しさが埋まることがあるでしょう」と、最近言われたけど

人と人とが寄り添って寂しさが埋まるくらいなら私は日々こんなに悲しくない

埋まるわけがないんだ、そんな簡単に

 

何を例えに出したらいいか分からないけど

寄り添って心が埋まるなら、キャバクラ行った後おじさんが嬢に粘着な連絡はしないんだ

風俗だってリピートされる事は無い

そばに誰かがいなくて寄る辺ない悲しさみたいなものに由来する寂しさなら

それは誰かに寄りかかることで一層顕在化してありありと見えるんだ

 

そうは思うんだけど、なかなか理性的に寂しさと向き合えないんだよなぁ

とりあえず悪いお酒を飲むことはよそう