砂を噛む

ご飯は美味しく食べたいものだ

 

好みの味で、適切な温かさで、きちんとした器に盛られていてもご飯の味がしないことがあった。

環境が甚だしく悪い状況で食事している時だ。

近くで誰かが怒鳴っているとか、自分が詰られているとか、ごはん時にそんなことするもんじゃないけど、そんなときに食べるご飯て味がしない。

 

わたしの母はそれを「砂を噛んでいるよう」と言った。

言葉の功罪は計り知れない。

 

あの味がしないぐちゃぐちゃした栄養摂取に「砂を噛む」と名付けることによって、グレーゾーンが失われきちんとした食卓と砂を噛む食卓が区切られた。これはいいことだったと思う。

「砂を噛む」と名付けたことによって惰性で流し込んでいたあの行為が食事から栄養摂取になった。これは良くなかった。

もう一ついいこととしては、誰かが傍で怒鳴っていても、物を投げていても、食事が(栄養摂取が)できるようになった。心臓に毛が生えた。図々しく生きられるようになった。

 

大学に進学したあたりから家族で食卓を囲む機会が減った。

一人で食べるか、外で食べるかだった。悪いことじゃない。平和な食生活がようやく訪れた。

社会人になって生家を出た。仕事場の寮や恋人と同棲するようになった。

食卓はより豊かなものになる。

好きなものを好きなように調理する。好きな人の顔を眺めながら食事する。多少調理に失敗しても自分で食べるから気楽なものであった。

ここ数年、「砂を噛む」ことは無くなった。気分がよくない時は無理に食事をしないようになった。

 

このことを友人に話した。あなたは砂を噛んだ経験はありますかとたずねると「『殺してやる』と思いながら噛みしめたご飯は最高においしかった」と言っていた。

人の食卓事情は様々である。

 

改めて、ご飯は美味しく食べたいものだと思った。

できれば、心身ともに健康な状態で。